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ベジタリアンが攻撃される理由 認知的不協和
ベジタリアンやヴィーガンでない人の中には、彼らに対して嫌悪感を抱いたり、攻撃する人がいます。その理由は認知的不協和にあります。
認知的不協和とは、心の中に生じた矛盾を解消しようとする心理作用を示すもので、フェスティンガー,C.によって提唱された。自己や、自己をとりまく環境に関する意見・信念・行動などを「認知」と呼び、認知的不協和理論では、その認知要素間に矛盾がある場合を「不協和状態」と呼ぶ。
つまり、思っていることと行動に矛盾が生じているときに感じる不快感です。
ある研究によると、ベジタリアンと接しただけで、非ベジの人は神経を逆なでされ、認知的不協和が生じるといいます。人は、認知的不協和が発生した場合、それを払しょくしようとします。
自分の行動を変えるか、信条を変えるか、あるいは、最もよくある選択肢として、自分の行為を合理化するかです。
例えば
本当は黒のランドセルが欲しいのに、「女の子だから赤にしなさい」と言われたので、赤のランドセルを選んだ。心の中の「本当は黒がいいのにな」という気持ちは不快なので、「自分は赤が好きなのかもしれない」と信じ込み、赤のランドセルを選んだという事実を正当化・合理化しようとする。
このような状況は認知的不協和を払しょくしようとしている例と言えます。
ある研究で、人々は肉を食べることで、動物のことを、「感情を持たない、どちらかと言えば愚かな生き物であると見なすようになる」ということが明らかにされてきました。
自分たちが食べるために動物が苦しんで死んでいくと考えると、落ち着かない気分になり(認知的不協和の発生)、その気分をよくするために、動物は愚かで、いずれにせよあまり苦痛を感じることができず、苦しむこともないと思い込むのです。
動物のことを思い浮かべず、動物と食べ物としての肉を分離する手法を「解離」と呼びます。解離によって肉を食べる習慣を継続しやすくしているものが、言語です。死んだ牛に「ビーフ」、豚を「ポーク」、馬を「さくら」と呼んだりすれば、死んだ動物とスーパーに並ぶ肉が別物であると、切り離すことができます。
また、肉に関連する認知的不協和が発生したときに取られる行動として、注意を向ける方向を肉食ではなくベジタリアンの人々に移すというものがあります。ベジタリアンを矛盾に満ちていて道徳的にずるい人間、偽善者だとすることで、非ベジの人々は自分の内部にある葛藤を鎮めることができるのです。
ホリエモンvsヴィーガン男子(Youtuber)
肉に関連する認知的不協和を払しょくするために、肉を食べない選択をする人々を攻撃するという例として、2018年春に日本のタレントのTwitter上で行われた批判的内容の投稿があります。
かねてよりヴィーガンを批判する内容をTwitterに投稿していたホリエモンこと堀江貴文の2018年4月上旬の投稿が炎上しました。
彼の主張は、ヴィーガンを押し付けるな、肉を食べにくい世の中にするな、自分の考えに反するヴィーガンは「気持ち悪い」し「クソ」だから「潰す」、というものです。
彼の言う「肉を食べにくい世の中」というのは、神経を逆なでされ、認知的不協和が起こる世の中なのではないでしょうか。
ベジの人の中には、肉食の残虐性を唱え、食卓にのぼる肉と命ある動物とを結びつけようという広報活動を行う人がいます。牛・豚・鶏はビーフ・ポーク・チキンではなく、とても賢い動物であり、人間が食すために苦しむべきではないというのです。
人々に自分が食べる肉について考えるきっかけを与えることになるので、いい活動だと思います。
でも、これは認知的不協和から逃れようとする人々にとってはかなりやっかいで、いわば彼らは気持ちよく肉を食べようとする人々の敵と言えます。
「そんな目障りなやつらがいなければいいのに。」
これがベジタリアンやヴィーガンといった肉食をしない人に対する攻撃の原因となるのです。
参考
マルタ・ザラスカ、小野木明恵訳『人類はなぜ肉食をやめられないのか』(2017)、インターシフト
ベジタリアンやヴィーガンは偽善者か?
生きることは、食べること。
食べることは、(動物であれ植物であれ)他の生命を奪うこと。
生命は、他の生命を破壊することで維持されています。
動物は殺しませんが、植物は殺します。
「生き物を殺すのはよくないから、動物を食べない。でも植物は食べる。」っておかしくない?植物も生きているのに!
という考えから、彼らが偽善的であるというイメージを持つ人も多いです。
だからといって、
「生きるためには絶対に何かを殺さなくてはいけない。動物と植物を差別するのはおかしいし、それなら差別せずに何でも食べてやる!お肉も魚も野菜も食べる!」
というのはどうなのでしょう?
倫理的には、絶対に何かを殺さなくてはいけないとき、それを最小限に抑えることが正しいです。
このとき、やはり菜食は倫理的に正しいのです。
「生命の保存」とは「生命の解体」であり、これは「生命の大いなる逆説」(Kass 1999:54)です。
この逆説に目を背けず、向き合いましょう。
以下、ジョン・マクフィーの『アラスカ原野行』からの引用です。
人々は生と死の概念を切り離す。しかしこの土地に身を置けば、彼らの死生観全体が変わる。森は、殺すものと殺されるものから成り立っている。生とはどこまでも、死から築きあげるものなのだ。生と死は二次元的なものではない。(中略)呼吸することがそうであるように、死は生の一部なのだ。(McPhee 1997:416)
参考
動物実験 日本生理学会 vs アニマルライツセンター
日本生理学会による動物実験の説明
日本生理学会によれば、動物実験に使用される動物の90%以上がラットとマウスです。
実験用の動物のほとんどは、研究用に育てられた動物を業者から購入して使用されます。
動物を研究に使用する際は、動物を人道的に扱い、苦痛を与えないように最大限に注意を払うことが必要とされています。
動物に対する行為はすべて動物愛護法、鳥獣保護法、総理府指針、環境省の指導、文部科学省通達に則り、日本生理学会の動物実験指針、各大学等の研究機関が設ける動物実験指針にしたがって実施されています。
各研究機関で行われる動物実験は、すべて動物実験(倫理)委員会の審査を受け、承認されることが必要であり、このようなルールが守られているという保障なしには、国内外の学術雑誌や学術集会において研究発表することができないのです。
動物実験の詳細は論文に記載するよう義務づけられていて、実験終了後は実験動物学会や国際基準によって定められた方法で安楽死させます。
動物実験に伴う動物愛護的批判から、動物を使わずに済む代替法の研究が求められています。人体モデル、コンピュータ・シュミレーションを使用する方法もありますが、これらは生命現象から得たデータを入力してはじめて使用可能となるもので、現在、未知の生命現象や病院を探る研究は動物実験を行う他にないといいます。
出典
動物実験反対の意見(認定NPO法人アニマルライツセンター)
認定NPO法人アニマルライツセンターは、動物実験に反対する理由を以下のように述べています。
1.他の動物の実験結果を人間に当てはめることはできないから。動物と人との間には違いがあるため、実験対象の種に対する効果を検証しているにすぎない。多くの医学者が動物実験は無用であると主張している。
2.「動物実験は人間にとって危険」だから。動物実験は真の科学ではなく、動物のデータを人間に当てはめるのは推測であるため、薬害が絶えない。
3.「完全に隠された中」で「全ての苦痛や苦悩を凝縮したものであり、動物の全ての尊厳を奪う行為」だから。監視システムや順守すべき規制もほぼなく、どこで動物実験が行われているかも把握されていない。
4.「動物の権利を侵害している」から。
5.「動物実験は税金の無駄遣い」だから。税金を費やした動物実験による癌研究を行っても、過去50年間で悪性新生物による死亡数が増加し続けている。
認定NPO法人アニマルライツセンターのWebページ上に各情報の出典の記載はありません。
実験動物と人間の違いに関して、日本生理学会は、「地球上の生命は共通の生命原理によって貫かれており、薬の有効量や効き目には差があるものの、病因や治療法の基本原理は多くの点で脊椎動物間で共通する」と述べています。
理由3の「完全に隠された中」については、日本生理学会は、実験現場に一般人が立ち入りできないのは人間の手術室に立ち入れないのと同じであると述べています。
また、上記「日本生理学会による動物実験の説明」で述べたように、日本国内での動物実験は様々な法律や実験指針のもとに行われていて、実験後は論文発表に際して実験の詳細を記述することが定められています。動物実験の際には、人間の手術と同じように麻酔・鎮痛薬を投与し、苦痛軽減の処置が行われているのです。そもそも、そのような処置なしでは動物が苦しみ、信憑性のある実験結果も得られません。
出典
動物実験に反対する理由 | NPO法人アニマルライツセンター 毛皮、動物実験、工場畜産、犬猫等の虐待的飼育をなくしエシカルな社会へ
見解まとめ
動物実験に関する日本生理学会とアニマルライツセンターの意見は、
動物が経験する痛みや恐怖(麻酔をして、安楽死をさせるからよい)
動物を使用するという行為そのもの(麻酔で痛みを感じてなくても、動物を利用するのはいけない)
どちらに焦点を当てるかに違いがあります。
日本生理学会は「最大多数の最大幸福」という究極目的の前に個体の権利は制限されるというシンガー的見方
アニマルライツセンターは人間による動物の利用それ自体が大幅に抑制されるべきであるというレーガン的見方
を持っているのではないでしょうか。
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